世間は気にするが社会には無関心 ある方のブログ より

【日本社会】
原発事故以来、人と会うと事故のことを聞かれるのだが、だんだんとうんざりして来てしまった。何故かというと、ドイツ人が日本の事故処理や日本人の行動に対して抱く疑問に、彼らを納得させる説明が私にはなかなかできないからだ。
昨日も、久しぶりに会った知人に、「何故、日本のような地震国に54基もの原発があるのか。危険性を日本人は認識しないのか」とか、「汚染された地域で人々が土地の農産物を食べ続けるのは何故なのか」、「これほどの大事故が起こっても人々が平気な様子で生活しているのはどうしてか」などと質問された。実際には、地震国で原子力発電をする危険性を多くの日本人が認識しているだろうし、原発から近い地域で採れた農産物はやはり敬遠されているだろうし、一見平然としていても内心は決して穏やかではないはずだが、ドイツ人がニュースを通じて知る日本人というのは「危険をろくに認識もせず、刹那的に生きている」人々だ。
そして、ドイツ社会で生活している私にはドイツ人の疑問がよく理解でき、「危険をろくに認識もせず、刹那的に生きている」わけではおそらくないのに、傍目にはそのようにしか見えない行動を取る日本人が不思議に思える。原発は危険だと感じればそう言えばよいし、食物の汚染が不安なら「心配だから買わない」と態度で示せばよいし、今いるところでの生活が脅かされていると感じるなら出来る範囲でもっと安全なところに移動すればよい。自らの感覚に沿った行動を取らないことが奇異に感じられる。
しかし、実際に日本へ行ってみると、人々の行動が不思議と「しかたのないこと」「当たり前のこと」に感じられてくる。頭で考えると「何故?」と疑問に感じられることに、「そうだから、そうなんだ」という気がして来るのである。そこで起こっていることは理屈ではなく、抗いがたい空気のようなもので、理屈に裏付けられていないだけに簡単に論破できない。
これをドイツ人に説明するのは限りなく不可能に思われ、質問に答えるのが面倒になり、「国民性が違うから」で済ませてしまった。
そんな折り、日本で買って来た本の一冊、鴻上尚史氏の『「空気」と「世間」』を読んだ。
「空気」と「世間」 (講談社現代新書)
作者: 鴻上尚史
なるほどと思えることが書かれていた。著者は「世間」と「社会」とは別物であると論じている。「世間」とは自分に関係のある世界、「社会」は自分に関係のない世界であり、日本人の多くは世間には関心があるが、社会には無関心であるというのである。
鴻上氏は、「世間」について歴史学者阿部謹也氏の著作、『「学問と世間」』(岩波新書)から次のように引用している。孫引きになるが、
「世間」と社会の違いは、「世間」が日本人にとっては変えられないものとされ、所与とされている点である。社会は改革が可能であり、変革しうるものとされているが、「世間」を変えるという発想はない。近代的システムのもとでは社会改革の思想が語られるが、他方で「なにも変わりはしない」という諦念が人々を支配しているのは、歴史的、伝統的システムのもとで変えられないものとしての「世間」が支配しているためである。
(中略)明治以降わが国に導入された社会という概念においては、西洋ですでに個人との関係が確立されていたから、個人の意志が結集されれば社会を変えることができるという道筋は示されていた。しかし「世間」については、そのような道筋は全く示されたことがなく、「世間」は天から与えられたもののごとく個人の意思ではどうにもならないものと受けとめられていた。
阿部氏によると、「世間」には以下の3つのルールがある。
1 贈与•互酬の関係 「お互いさま、もちつもたれつ、もらったら必ず返す」 中元•歳暮、義理チョコ、手土産などの習慣に表れる
2 長幼の序 「先輩の言うことには従うしかない」等。
3 共通の時間意識 「世間」という共通の時間にすべての人が生きているという認識。「お世話になっております」「今後ともよろしくお願いします」「先日は有り難うございました」などの挨拶に表れる意識。鴻上氏の説明によると、『会社やグループ、サークルなどで飲みに行く時、一人、「私、帰ります」と言って違う時間を過ごしてしまう人が、「世間」から排除される構図』。
鴻上氏はこれに以下の2つのルールを加える。
4 差別的で排他的 クラス全体で一人を無視するといういじめ。欧米にもいじめはあるが、「全体が一致して一人と口を利かない」といういじめはない。日本人はこのような方法で自分達は「世間」に属しているのだと確認する。
5 神秘性 「昔からそういうやり方をしている」という一言で、「しきたり」や「伝統」や「迷信」が守られる。そこに論理的な根拠はない。そうすることで、「世間」は仲間と仲間でない人間を分ける。ある人が逮捕された瞬間から世間はその人を犯罪者扱いし、世間から弾き飛ばす。
こうした特徴を持つ日本の「世間」は次第に崩れていってはいるが、「世間」ほどは固定していない、もっとゆるやかな「空気」が日本人の生活を支配していると鴻上氏は指摘する。
そう言われてみると、日本のマスコミ報道が欧米のそれに比べて情緒的であり、事実関係の解明よりも「同情や怒りの空気を生み出す」ことに貢献していることに納得がいく。日本人は物事を相対的に語ることが苦手で、他人の意見を聞いたときにその人を「世間一般の考え方をする人か」それとも「異端児か」に分類してしまう傾向がある。異端児のレッテルを貼られた人の語ることは、「どうせ異端児の言うことだ」と鼻から相手にしない風潮もある。そして、鴻上氏の述べるように「空気の支配は、議論を拒否する」のである。
「空気」というものは欧米社会にも存在するのだが、欧米のそれは日本の「空気」ほど支配的ではない。「空気を読め」という大きな圧力をドイツ社会の中で感じることはない。人は人、自分は自分である。過去エントリーの残念なKYという言葉にも書いたが、過度の同調傾向は好ましくないと私は考えている。
このように欧米との対比で日本を語ると、「やっぱり日本は特殊なのだ」「日本独特の価値観は外国人には到底理解されない」「日本は日本のやり方を貫くべきだ」という結論に達しそうだが、それもまた正しくない。私が見て来た限り、アジアの国々というのは多かれ少なかれ「世間」を重視する傾向がある。世界の中で日本だけが特別だ、と殻に閉じこもるなら、日本人は排他的な「世間」と「空気」の呪縛から決して逃れられないことになる。
今回の原発事故で私が痛感するのは、日本人は日本国内の「空気」は非常に気にするが、日本の外で自分たちがどのように見られているかをほとんど気にしていないことだ。日本人にとって、世界は自分たちに関わりのない「社会」ということなのだろう。国内においてすら、日本全体の問題を考えることよりも、自分が直接の人間関係を持つ「世間」の中でうまくやって行くことを重視しているように見える。

Topazius Mon 2 Mar 2015 3:49AM
Sherlock,
It have written what about
Why Japanese people really care for public.
and why they are not care for society.

Sherlock Holmes Mon 2 Mar 2015 6:42AM
OK.
You mean they worry about what other people think about them and that they are apathetic to society.

RYO TANIGUCHI Sat 7 Mar 2015 12:54PM
A summary for Mr. Holmes.
Japanese language has two kinds of word for society. Those are 社会(SYAKAI) and 世間(SEKEN).
You can say, SEKEN is PUBLIC in English, but I don't think it correctly explains SEKEN.
As you know, they care about what other people think about themselves.
They are trying to DO WELL in public, not DO GOOD for society.

Sherlock Holmes Sat 7 Mar 2015 12:55PM
They are not doing good!
They may think that they are but they are not!
If they were doing good then where is all the goodness that they have created from this??

Sherlock Holmes Sat 7 Mar 2015 12:59PM
Where unhappiness and misery exist then there is IMMORALITY.
Sherlock Holmes · Sun 1 Mar 2015 11:31PM
Topazius, is that what told me about?